時間のみなもと ミヒャエル・エンデ「モモ」から

公開日: : 本 / book

先日、ミヒャエル・エンデの「モモ」を友達何人かと読んで意見交換をした。

この話を、中学生のときに映画として見て、大学生のときに本で読んだ。その後、社会人になって2〜3年目に忙しいと感じることが増え、また思い出したようにこの本を読み返した。

効率化のなかで時計に支配され、自分のこころを失っていくという近代批判だともっぱら理解していた。しかし、今回三回目の読後は少し違った箇所に注意が向いた。

いくつかあるのだけど、もっともひきつけられたのは、モモが「時間の源」へ入っていくシーン。主人公のモモは、友達たちを時間泥棒に奪われて一人ぼっちになってしまう。そのとき、マイスター・ホラという時間を司る老人に出会い、「時間の源」という場所の名だけ知らされて、沈黙を約束して連れて行ってもらうのだ。

とくに10月にヴィパッサナー瞑想で10日間の静寂を経験したことで、自分の内側に流れている時間としっかり向き合ったこともあり、描かれている世界と通じるところがあると思った。

少し長くなるが、物語から引用。描写がとっても美しい。

「時間のみなもとを見たいかね?」

「ええ。」と、モモはささやくようにこたえました。

「つれていってあげよう。だがあそこでは沈黙を守らなくてはいけない。なにもきいてはいけないし、ものを言ってもいけない。それを約束してくれるかね?」

それから、マイスター・ホラのうでに抱かれたまま、長いくらいろうかをとおっていったようです。

天井のいちばん高い中心に、丸い穴があいています。そしてそこから光の柱がまっすぐに下におりていて、そのま下には、やはりまんまるな池があります。そのくろぐろとした水は、まるで黒い鏡のようになめらかで、じっと動きません。

水面にすぐ近いところで、なにかあかるい星のようなものが光の柱の中できらめいています。それはおごそかな、ゆったりとした速度で動いているのですが、よく見ると、黒い鏡の上を行きつもどりつしている大きな大きな振子でした。でもどこかからぶらさがっているのでもないようです。まるでおもさのないもののように、宙をたゆたっています。

この星の振子はいまゆっくりと池のへりに近付いてきました。するとそのくらい水面から、大きな花のつぼみがすうっとのびて出てきました。振子が近づくについれて、つぼみはだんだんふくらみはじめ、やがてすっかり開いた花が水のおもてにうかびました。

それはモモがいちども見たことがないほど、うつくしい花でした。まるで、光りかがやく色そのものでできているように見えます。このような色があろうとは、モモは想像さえしたことがありません。星の振子はしばらく花の上にとどまっていました。モモはその光景に、すべてをわすれて見入りました。そのかおりをかいだだけでも、これまではっきりとはわからないならがらもずっとあこがれつづけてきたものは、これだったような気がしてきます。

やがてまた振子は、ゆっくりもどっていきました。そして振子がわずかずつ遠ざかるにつれて、おどろいたことに、そのうつくしい花はしおれはじめました。花びらが一枚、また一枚と散って、くらい池の底にしずんでゆきます。モモは、二度ととり戻すことのできないものが永久に消えさってゆくのを見るような、悲痛な気持ちがしました。

ところがそのときには、池のむこうがわに、またべつのつぼみがくらい水面から浮かびあがりはじめているではありませんか。そして振子がゆっくりと近づくについれて、さっきよりももっとあでやかな花が咲きにおいはじめたのです。

今度の花は、さっきのとはまったくちがう花でした。やはりモモの見たことのないような色をしていますが、こんどの色のほうが、はるかにゆたかで、はなやかな気がします。においも、さっきとはちがう感じの、もっとあでやかなにおいです。見れば見るほど、つぎからつぎとこの花のすばらしい点がモモの目に入ってきました。

けれどもやがてまた星の振子は向きをかえ、花はさかりをすぎて、一枚ずつ花びらを散らし、くろぐろとした池の沼の底知れぬ深みに消えてゆきました。

しずかに、しずかに、振子は反対がわにもどって行きます。けれどさっきとおなじところではなく、ほんのわずかずれたあたりです。そしてその場所、さいしょの花から一歩ほどはなれたところに、またしてもつぼみがひとつ浮かびあがり、しずかにふくらみはじめました。

これほどうつくしい花があろうかと、モモには思えました。これこそすべての花の中の花、唯一無比の奇跡の花です。

けれどこの花もまたさかりをすぎ、くらい水底に散って沈んでゆくのを見て、モモは声をあげて泣きたい思いでした。でもマイスター・ホラにした約束を思い出して、じっとこらえました。

向こうがわへ行った振子は、そこでもまたさっきより一歩ほどとおくまで進み、そこにふたたび新しい花がくらい水面から咲き出しました。

見ているうちにモモにだんだんとわかってきましたが、新しく咲く花はどれも、それまでのどれともちがった花でしたし、ひとつ咲くごとに、これこそいちばんうつくしいと思えるような花でした。

岩波書店ミヒャエル・エンデ 大島かおり訳「モモ」213ページから217ページから

インドでの瞑想経験は、時間を感じるという経験でもあった。外部からの刺激を極力排除して身体に注力を集中するために、読み書き、話す、アイコンタクトなどの全ての行為が禁止された。

自分の場合は、階段を降りていくイメージで意識の闇の中を少しずつ下の階層へ歩いて行った。本来の瞑想の目的は、身体の各所に神経を集中させてセンセーションを感じていくということだったので、考えすぎるのはよくないことかもしれない。しかし、先日も書いた通り、過去のできごとが、ここでたとえられている花のように咲いてきてはそのころの景色や人が見えて、また闇に消えていくという雑念というか過去の振り返りは避けられないことだった。

それぞれの時期は決してうつくしいだけではなかった。でもそれはつぼみから花まで成長し、そして花のように枯れていくのと同じように浮かんでは闇に消えていった。

まさに、このモモのシーンに近かった。

時間の源から出たとき、モモがこれはすべての人々の時間なの?と尋ねるシーンがあるが、ホラはそれはモモ自身の時間の世界だと言う。ホラは、誰しもこの世界を持っているのだが、自分が手を差し伸べないと見られない世界なのだという。

このホラと一緒になって時間に向きあうという比喩は、何を意味しているのだろう。

ホラは次のようにも言っている。

「人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんじしんできめなくてはならないからだよ。」

僕の理解は、マイスターホラなる存在は、自分の中にもある時間自体じゃないかということ。じぶんの時間をコントロールして、ある一定時間、内面に流れる時間に向きあうことで見られる世界。

ただし時間を感じるには、「なにもきいてはいけないし、ものを言ってもいけない」。まさに全神経を時の流れに任せる。

集中力とは、外側の流れから離れ、自分の内面に流れる時間にどの程度身を任せていられるか、その程度や力のことではないかと思う。

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